【エッセイ】十数年ぶりに将棋を再開したワケ
【エッセイ】十数年ぶりに将棋を再開したワケ
将棋を十数年ぶりに再会しましたと5月9日に書いたエッセイ記事で述べましたが、なぜ将棋を再開したのかと私の将棋との縁を今日はお話しようと思います。
少々文章が長くなってしまいましたが、お付き合い頂けたら嬉しいです。
私は家庭の事情で親と確執があるのですが、その確執のある父から唯一直に教わったものが将棋でした。小学二年生頃でしょうかね。私の通った小学校は四年生から校内のクラブ活動に入る事が義務付けられており、私は将棋クラブに入りました(ちなみに委員会は飼育委員会。26年生きてくれた愛猫の”たま”が家族になったのも確かこの頃。まるで四十年後の現在を暗示しているかのよう・・・)。中学生になってからは部活に将棋部は無く、その後は将棋とは無縁の生活を送り続けました。
成人し看護師になり、脳神経外科と整形外科の病棟で医療の最前線で働き、その後は関心の強かった老人看護を仕事にする為に老健施設に入職しました。
その老健施設で将棋だけが生きがいという老人の方が入居してきました。入居の際は私物持ち込みは禁止でしたがその方本人と家族の頑なな希望で愛用の将棋盤と駒の持参を特別に許されたほどでした。
しかしその方が将棋を指す機会は施設では与えられませんでした。介護やリハビリのスタッフが毎日レクや作業療法などを企画していましたが、いつも塗り絵や歌の合唱などばかり。「なんで将棋やらせてあげられないの?」と聞くと「自分達は将棋を知らない」「みんな塗り絵をしてるじゃない。塗り絵も頭の体操になるのよ」「みんなが出来る事じゃないと」「看護が何でレクに口を出すの?」と言われる始末。次第にその老人は自室に籠りがちとなり認知症状も徐々に進んでいくのが看護師の私にはわかりました。ある日その老人の様子を伺いにそっと自室を伺ったら、その老人は泣いていました。私が声をかけると「将棋がしたいのに・・・将棋はそんなにやっちゃダメな事なのかい」とポツリと言いました。私は「なら私がやってあげるよ」といいその方と将棋を指しました。小学校卒業以来の約20年弱ぶりの将棋。結果は私の惨敗で秒殺。その方は「ありがとう、ここに来て初めて将棋が出来た。嬉しいよ。でも、こんなに弱いと将棋になってないな。嬉しいんだけど・・・」嬉しさと歯がゆさが混じった面持ちでした。「何十年も苦労して生きてきて好きな将棋すらできない人生の最後が待っているものなのか」。そして調べてみると他にも実は将棋が唯一の楽しみだったという老人がほかにもいる事を知りました。何か胸にこみあげるものがあった私は、誰も出来ない、やろうとしないなら私がやってやる。そう思い、一から将棋の勉強を始めました。三手詰め詰将棋から始め、駒の各々の手筋と戦法の定跡本をとにもかくにも買いあさり(詰将棋を含めれば棋書は百冊はあったと思います)すべて棋譜並べし、三手詰めが一瞬で解けるようになったら五手詰めを毎日解き日課とし、町の将棋サロンや道場にも通いました。おそらく看護師の国家試験の受験勉強より勉強しました。その老人の将棋の相手を度々し何か月も負け続けましたが次第に五分の戦いができるようになり、勝敗も五分五分となっていき、対局の度に嬉しがったり悔しがったりするその老人の顔がそこにはありました。町道場でちょうど棋力二段だと言われた頃でした。将棋を初めて一年ちょっと・・・一年と半年くらい経っていたでしょうかね。その老人のご家族も面会の度に「あなたが将棋をしてくれる看護師さんですね、父から聞いてましたよ。我儘ですみません。でも本当に嬉しいです。ありがとうございます。」と本当に喜んでくれていました。
しかし、その老人の方を喜ばせる棋力を身に着けるようになる頃には次第にその老人の方の認知症状は悪化の一途をたどり、その老人の方は将棋という存在すら認知できなくなってしまいました。その頃は町道場で四段のクラスで指し三段の免状も頂きました。将棋の上達はとても早かったのかもしれませんが、それはその老人の方の認知症状の悪化までの期間には間に合わなかったのです。そしてその老人の方は亡くなりました。その後の私は”勝負”にこだわる様になり、老人を喜ばせる事から目の前の将棋の相手に「負けました」と言わせ頭を下げさせる事に快感を覚えるようになっていきました。相手を叩きのめす。ほかに目的はなくなっていました。そしてある日、フッと糸が切れたように「あれ、なんで私は将棋をしてんだろ、こんな風になる為に将棋を始めたんだっけ・・・?」と突然思い始め、そして”勝負”や”順位”というものに嫌気がさすようになり将棋を一切辞めました。
それから十数年。将棋に無関心、将棋とは無縁の生活を送っていました。
今の家族の一員である愛猫の”きなちゃんとダンくん”と出会い、かつての愛猫の”たま”への想いや愛情も込み上げ、保護猫活動をキッカケに猫写真家としての出版の機会も授かり出版社の社長様から”キャットエイド猫写真家”という肩書も付けてもらえて愛玩動物飼養管理士の資格も得ました。
そして今、キャットエイド猫写真家として次の出版を目指しつつ、日々の生活や猫写真家活動の資金の為に認知症専門の民間病院で看護師として働く私。
そしてある日、ある認知症の老人の方が入院してきました。その方は将棋がとても好きな方でした。介護スタッフから「あの方、将棋がすごく好きらしくて、でも、とんでもなく強くて誰も相手にならないんですよ。誰もやりたがらないの」と相談されました。
かつての老健施設での将棋の老人の事を思い出しました。有段者としての肩書は持っていてもそれはもう十数年前の話(たぶん15~16年くらい前)。あれから将棋の駒すら触ったこともなく、今話題の藤井八冠のTVの将棋界歴史的大ニュースもボヘ~っと眺めている私。
当たり前の事ですが将棋は看護業務や医療行為ではありません。私が今働いているのは”病院”で私は”看護師”です。ですが「でも、患者さんが一時でも喜んでそれが患者様の刺激になるなら・・・」と思った私。
対局し、その患者様の表情が患者ではなくなり、認知症とは思えない厳しい手筋を指し、対局が終盤に入った頃に「あんた、段もってるだろ。」と毅然とした表情で言ってくる患者様。周囲には何人かの患者様がギャラリーしに私たちの対局を取り囲んでじっと見つめていました。皆、普段の認知症の入院患者の顔ではありません。その対局(私の石田流対患者様のノーマル中飛車)は私が勝ちましたが「もう一回!」とその患者様が言うので、次は指す事のなかった戦法を用い患者に勝ちを与え(私の原始棒銀対患者様の中飛車・穴熊)「一勝一敗。いい勝負だったね」と言葉をかけてあげました。その数分後、他の介護スタッフに「将棋の友達が出来た」とその患者は喜んで言っていました。多分、私の勝手な見方ではその患者様は二~三段くらいの棋力だと思います(得意戦法はどうやらノーマル中飛車らしい)。
そしてその対局を知った上司である看護師長から「すごくいいじゃない、患者様、喜んで刺激になってるよ」とお言葉を頂きました。
二度も将棋を捨てながら(逃げながら)も、またこうして自分の将棋が完治する事のない認知症という病を得てしまい決して長くない残りの人生の方たちの喜びになるのであれば、また始めてみよう。ただし今度は勝敗に酔いしれ盲目にならないように。
これが私は十数年ぶりに将棋を再開したワケです。
だたし、キャットエイド猫写真家として愛玩動物飼養管理士でもある猫写真家活動が私の”最重要使命”と思っているので、当然そのことを疎かにしないように将棋をたしなんでいこうと思っています。
とはいえ、やはり十数年のブランクは相当なものですね(汗)。
まずは完全に無くしたに等しい”読み”の力を再び取り戻すため、五手詰めの詰将棋を日課に取り入れ実行中です。
将棋の基礎体力とってもいい”読み”を再び取り戻すため五手詰詰将棋を日課にしています。写真は日課にするために購入した詰将棋本。うちすでに三冊は一回解き終え四冊目を解いています。どんなに仕事で疲れていても寝る前に必ず少なくても数問は解きます(時には「あれ?」なんてつっかえる時がありますが←ブランクがあるとはいえ、お恥ずかしい(汗))。
そろそろ最近の定跡を並べて覚えている古い定跡を修正しようと思います(将棋のユーチューブを見たら今の定跡が昔のそれと随分異なっていて目が点になってしまいました(汗))。町道場やネットの対局はその後かな・・・。
きなちゃんとダンくんが私には一番だから安心していいよ。きなちゃんとダンくんの仲間が一頭でも人間と一緒に幸せになれるようなキッカケになる作品を作っていくからね!
また将棋にまつわる記事を書く事もありますが、猫好きや猫を幸せにしたいと想っている方々も将棋好きの方々も、今後とも宜しくお願い致します。